こんにちは、なめこです。みなさん、お元気ですか。感染症の拡大とその予防をめぐり、困難な生活が続いていると思います。生活の維持に必要なことは少なくないと思われますが、どうぞご自愛を第一にお過ごしください。
さて、森本先生がお勤めしている学校で映画『天気の子』(2019,新海誠監督)の鑑賞をしました。森本先生が非常勤講師として授業を担当している国語の授業内でのことです。ぼくときよしもその鑑賞会にお邪魔しました。
『天気の子』を観ていると、物語の終盤で観る者は心をわしづかみにされることがあります。学校で鑑賞したのは高校生でしたが、若い彼らの中にはそういった経験をする人たちが多いようです。涙を流しながら映画を観ていた生徒は1人や2人ではなかったのでした。
ぼくたちはもう何度もこの映画を観ました。それでも観るたびに新しいことを発見したり、同じように心を躍らせたりしています。エンターテインメントとして、優れた作品だと思います。この物語はこれからもきっとぼくたちを楽しませてくれるでしょう。
最近の新海監督は物語の中で食事シーンをよく描いています。その食事は、腕利きの料理人や菓子職人による特別なこしらえではありません。コンビニエンスストアで買ってきた食品やジャンクフードのたぐいを食べるシーンを新海監督はよく描いています。それは新海監督が東京の新宿区周辺という都市で生活するキャラクターの物語をここのところよく描くからだと思います。現代の都市生活者のリアルな食事の様子だと思います。ぼくもなめこも東京都心で暮らしているのでわかります。
ぼくはそういう新海監督が描く食事シーンに心をひかれます。
どうしてなのでしょうか。
気になったので自分なりに考えてみました。
ぼくが新海監督の描く食事シーンに心をひかれるのは、それで人間と人間のむすびつきのに関することがあわせて描かれているからだと思います。
人間と人間のむすびつきに関することと言いましたが、その中には孤独な状態も含まれると考えてください。
新海監督は孤食のシーンも多く描いています。
でも、一人でする食事より、仲間と分かち合う食事の方がずっとおいしい。
ぼくは『天気の子』を観て、あらためてそう感じたのでした。
『天気の子』の劇中にはみなさんにもおそらくなじみがあるであろう食品が出てきます。日清食品さんのカップヌードル、日本マクドナルドさんのビックマック、ローソンさんのからあげくんなどがそれです。
どれもジャンクフードと呼ばれるものです。でもそれらの食品を食べる登場人物たちは実に美味しそうにそれらを食べるのです。
新海監督の他の監督たちもアニメーション作品の中で食事のシーンを描いています。その中で美味しそうな食事のシーンと言えば、ほとんどの場合において、料理はハンドメイドです。
『天気の子』の劇中の料理は必ずしもそうではないのが特徴だと思います。料理は工業的な既製品そのものだったり、それに多少の手を加えた程度のものだったりするのですが、それが実に旨そうなのです。
実際にビックマックを食べる「帆高」が言っています。それまでに食べたどの食事よりも、それは美味しかったというのです。彼にそれを差し出した「陽菜」と彼(帆高)との結びつきがそれをそのように感じさせたのだと思います。
そういった人との結びつきが食事を美味しく感じさせるという経験をぼくはこれまでにしている気がします。
みなさんはどうですか?
ところで、新海監督は『天気の子』のテーマとして「少年と少女が、世界を変えること」と「調和を取り戻さない(世界が狂ったままの)物語」という2つのことをあげました。ブルーレイ版『天気の子』に付けられた「特典ディスク」に、そういったことを説明する新海監督の映像が収められています。『天気の子』という物語は、実際にそういう物語なのだろうなと思います。
その物語の中で登場人物たちが食事をしています。ぼくたちの実世界での生活と実によく似ているではありませんか。
そう言えば去年、きよしが『天気の子』をめぐる文章をこのブログに書いていました。それから1年くらいの時間が過ぎようとしています。
その間に色々なことがありましたね。
その中では特にここ数ヶ月の新型コロナウィルス感染症をめぐる出来事が思い出されます。私たちの生活は感染症の拡大以前と比べて、多くのことで変わってしまいました。
その変化は私たちの食事の仕方に現れているのではないでしょうか。感染症拡大の予防のために私たちの生活からは会食の機会が随分と減りましたね。
しかし、それでも私たちは誰かといっしょに食事をすることがあるのです。
『天気の子』の中で、登場人物たちがカップヌードルやからあげくんでささやかで幸せな会食をするシーンがあります。そこではカップヌードルやからあげくんのような食べ物が共食されます。
あ、どもぐいと読まないでくださいね。共食です。
今日、ぼくは学校でその共食のシーンを見て、思いました。今のご時勢、なかなかそういったことをするのは日常で難しいでしょう。食べ物をシェアするのは最もウィルス感染のリスクが高い行為だからです。
でもその共食の場面は実に幸せそうに見えるのです。実際にそんなことができたら、きっと幸せな気分に違いありません。
森本先生もそのことを高校生たちに話していました。
実は今でも、家族や仲間で食事を共にすることがありますよね。
ぼくはここで家族だから食事を共にしろ、仲間なのだから食事につきあえと言っているのではありません。
逆です。
今のような新型ウィルスによる感染症のリスクがあるときに、それでも食事を共にする人たち、それが私たちにとってかけがえのない人たちなのではないでしょうか。
そういった大切な人たちのことを家族・仲間と呼びたいものです。
繰り返しになりますが、許してください。
一緒に食事をするから結びつくのかどうか、それはよくわかりません。
結びつきがある人との食事は幸せなのだとぼくは思います。
新型コロナウィルスで、私たちが暮らす世界はすっかり変わってしまいました。
その世界はなかなか調和を取り戻しません。
奇しくも新海監督が『天気の子』の製作にあたりテーマにしたのと同じようなことが起きています。
ぼくは新海監督のことを予言者だと考えたりしません。新海監督が考えたことは、世界の普通だったのだと思います。
私たちの世界はこれまでに何度も変わってきました。その度に世界の「調和」は崩れ、それは元に戻らなかったのだと言えそうです。
そうした世界の中で生活するのが、私たちにとっての「普通」なのだと思います。
その際にみなさんはどんなことを大切にしますか?
ぼくはぼくにとって大切な人たちのことを大切にしようと思います。そして私たちの社会で生活している人たちは誰もが誰かにとって大切な誰かなのかも知れないと思うようにしています。だからぼくはどの人の生活も大切にしたいと思っています。
それで世界が大丈夫なのかどうか、ぼくにはわかりません。たぶん、それだけでは大丈夫ではないと思います。
でも、まずはそこから始めたい。ぼくはそんなふうに考えています。
今日は『天気の子』を観て、そんなことを感じたのでした。