「普通」ではない

こんにちは。なめこです。新学期の授業が始まりましたね。
今日紹介したいのは、素敵な内容の動画です。みなさんにお時間の許しをいただけるなら、ぜひ見ていただきたいと思います。

お気に入りの飲み物やチョコレートなどのつまみを用意して、ゆっくりとご覧になってください。7分ほどの動画です。

さて、みなさんが動画を見ている間にぼくはここでお話を続けますね。

みなさん、お元気ですか。日本国内でCOVID19の感染が確認されて、1年あまりが過ぎました。これまでにも何度かこのブログでお話をいたしましたが、その前と比べて、私たちの社会的生活はずいぶんと変わってしまいましたね。楽しみにしていた修学旅行や演奏会などが中止になってしまい、悲しい思いをした生徒や学生は少なくないでしょう。感染症拡大の予防が大切なのは当然なのですが、そのために私たちの生活は何らかの影響を被ります。それが経済的困窮につながったり、人権侵害に結びついたりする例がないわけではないのです。実に注意が要りますし、保障も必要だとぼくは思います。

ところで、森本先生は昨年来、太ってしまいました。これは多分、COVID19の感染症拡大とあまり関係なく太っているのだと思います。お酒を飲んだり、スナック菓子を食べたり、不摂生な生活をしているのが原因です。森本先生が病気になったり死んだりしたら、ぼくたちは困るのですが、その辺りのことを彼はどのように考えているのでしょうか。まったく困ったものです。

冒頭の見上公一先生の動画でも、そのような例が話題になっていますね。

私たちの身の周りにあるさまざまなモノは、私たちの行動を規定(あるいは制限)する働きを持っている。

そのように見上先生は教えています。

動画で示された写真の通りです。最近の電車内ではロングシート(座席)に1人分のスペースを示すくぼみがついていたり、縦むきに手すりが取り付けられていたりします。特に後者はシートを区切る働きをそれをりようする私たちに対して強く示すようです。

手すりによる区切りがあることで、お相撲さんのような大きな体格をしている人や何らかの理由で横幅を取る姿形で日常生活をしている人は、その座席の使用を制限されます。また複数人で連れ立って座席を利用する場合にも、座席の区切りはその利用の仕方を規定するでしょう。例えば複数の子供を連れて乗車する際、座席をどのように使用するかは、各交通機関が設けたルールなどに基づきながら、子供とその保護者などに適した仕方でその都度、考えられて良いだろうとぼくは思います。

モノのデザインにはその使用にあたって前提となる「普通の人」についての定義が隠れていて、その定義によって排除される人たちにだけ、不便さや不安、場合によっては罪悪感を与えることがある。

そういう主旨の説明を見上先生がしていました。

差をつけて扱うこと、わけへだてることを差別と言います。「差別と区別とは違う」という言い方を聞くこともありますが、差別と区別は原理的には変りません。ビジネスで商品の差別化を同業他社の商品やサービスと比べて明確にするのに人権上の問題はありませんが、人間についての恣意的な区別にもとづいて不平等や人権侵害を生むのは問題です。「区別は良いけど、差別はいけない」、そんないい加減は仕方でわかっていないこととわかっていることの区別がつかない状態に陥ると、うっかり不当な不平等や人権侵害を私たちは見逃すかもしれないのです。注意が要る思います。

冒頭の動画で見上先生が説明したように、モノの政治性については、その政治性の影響を被り、普通の定義から排除される人にだけ、それによる規定や制限が理解されるものです。その意味で政治性に拠る排除や制限は目に見えないことがあるのだと思います。

ぼくはきのこです。そのため人間については理解できないことがあるといつも思っています。森本先生がお酒を飲んだりスナック菓子を食べたりするのが、ぼくには理解できないのですが、それには何か人間的な理由があるのかも知れません。(無いのかも知れません。)ぼくにとって人間は他者なのです。

森本先生は他者を尊重しています。ぼくにはそのように見えます。その他者は女性だったり、子供だったり、高齢者だったり、傷病者だったり、思想の異なる人だったり、異なる信仰を持つ人だったり、異言語話者だったりします。そうしいった他者にどうしようもなく心をひかれてしまったり、それに引っ張られるようにしてなんとか生きて行けたりするのが人間性というものだそうです。偉い先生がそんな話をしています。

他者のことについて充分に理解することは困難です。そのため、私たちは理解できていないことについて確かめることをやめて、理解できていると思いこんでいることばかりに関心を向けてしまいます。「普通の人」と言うとき、その「普通」はそのようにして決まるのだと思います。

普通の普って、あまねくという意味です、どこまでもひろく行き渡るという意味です。私たちが考えている「普通」な状態や様子というのは、果たしてそのような性質を備えているのでしょうか。あやしいとぼくは思います。

統計学的平均は普通ではありませんよね。「偏差値50」が普通ではありません。多数派が普通なのでもありません。保守的なことが普通なのでも、リベラルであると言われることが普通なのでも、必ずしもありません。

ぼくは普通なきのこなのでしょうか。わかりません。多分、ぼくには普通でないところがたくさんあると思います。このように理屈っぽく長い文章を書くのはきのこの普通ではなさそうです。パンダと同棲しているということもきのこの普通ではないと思います。

森本先生もそれは同じです。多分、みなさんそれぞれについてもそれと同じようなことが言えるはずです。

もう一度「他者」についての話をしたいと思います。

他者性とは属性で決まるのではありません。森本先生は男性です。その意味で女性は森本先生にとって他者的です。ただし女性であるという包括性のようなものがそれぞれのパーソナルなことを決めるのではありません。社会的に「女性」ということが包括的にとりざたされることがあり、それを先哲はジェンダーと名付けました。そういう包括性に関して不平等が生じるとき、それはジェンダー不平等であると言われます。

ジェンダーだけではなくセクシュアリティーについて重要なことを論じた賢人もいます。きのこに人間のようなセクシュアリティーはありません。セクシュアリティーはきっと人間性に関する重要なことなのだとぼくは直感しています。そういう重要なことを取り扱う際にも、「普通」という言葉を隠れ蓑にして、乱暴な包括をしてはならないとぼくは思います。それは人権に悖ることです。

そういう人間性に関することに「平均」も「偏差値50」も、あまり関係がないと思いませんか。また道徳とか道理とか常識といった「普通」だとされることで包括的に取り扱われるべきことでもそれはありません。(繰り返しになってごめんなさい。)

そういう人間性に関する個人的言動について「わきまえろ」という命令を好む人たちがいます。それってどういうことなのか、そういう命令をする人たちはわきまえていらっしゃるのでしょうかね。わきまえるべきことがあるとしたらそれは倫理的なことだと思います。そしてその倫理は人権に悖るものでなく、人間性を尊重するものであることが望ましいとぼくは思います。