女子マネに懇願「やめないで」 2人で戦ってきた3年間

女子マネに懇願「やめないで」 2人で戦ってきた3年間

高校野球では、部員の足りない学校は他の同じ状況の学校と連合チームを組んで大会に出場する。
それぞれの学校に、それぞれの部員に、彼らだけのストーリーがある。
選手1人、マネージャー1人だけで1日も練習を休まず部活を続けてきた大山の2人の最後の戦い。

コロナ禍の私大、国は柔軟に支援を 入試日程変更、入学者数読めぬ不安 佐藤・私大協新会長に聞く

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各大学が良い人材を育成し良い研究ができるように、協会はできるだけのサポートをしていきます。といっても、護送船団のように進むわけではありません。私学の私学たるゆえんは、個性を持ち、自分で判断し、自分で責任をとることです。各大学が『建学の精神』に基づいて、より良い教育を求めて頑張ることが、何よりも必要です。(記事)

今回のコロナ禍で不安を抱えているのは大学側も同じなようです。受験生は今一度、受験予定の大学の動向に注目しておきましょう。

集まれ女子中学サッカー選手 さいたまで教室

埼玉)集まれ女子中学サッカー選手 さいたまで教室

 新型コロナウイルスの影響で開催が延期されていたさいたま市内の女子中学生向けサッカー教室「スマイルプロジェクト」の今年度の初回が11日、堀崎公園(さいたま市見沼区)のグラウンドであった。大宮アルディージャのスクールのコーチの指導を受け、参加者らはパスやシュート練習で汗を流した。(記事)

コロナウイルスでできなかったスポーツが再開されつつあります。スポーツ教室関連で感染者がでないように新しい教え方を模索する必要があると思います。

『天気の子』2020

こんにちは、なめこです。みなさん、お元気ですか。感染症の拡大とその予防をめぐり、困難な生活が続いていると思います。生活の維持に必要なことは少なくないと思われますが、どうぞご自愛を第一にお過ごしください。

さて、森本先生がお勤めしている学校で映画『天気の子』(2019,新海誠監督)の鑑賞をしました。森本先生が非常勤講師として授業を担当している国語の授業内でのことです。ぼくときよしもその鑑賞会にお邪魔しました。

『天気の子』を観ていると、物語の終盤で観る者は心をわしづかみにされることがあります。学校で鑑賞したのは高校生でしたが、若い彼らの中にはそういった経験をする人たちが多いようです。涙を流しながら映画を観ていた生徒は1人や2人ではなかったのでした。

ぼくたちはもう何度もこの映画を観ました。それでも観るたびに新しいことを発見したり、同じように心を躍らせたりしています。エンターテインメントとして、優れた作品だと思います。この物語はこれからもきっとぼくたちを楽しませてくれるでしょう。

最近の新海監督は物語の中で食事シーンをよく描いています。その食事は、腕利きの料理人や菓子職人による特別なこしらえではありません。コンビニエンスストアで買ってきた食品やジャンクフードのたぐいを食べるシーンを新海監督はよく描いています。それは新海監督が東京の新宿区周辺という都市で生活するキャラクターの物語をここのところよく描くからだと思います。現代の都市生活者のリアルな食事の様子だと思います。ぼくもなめこも東京都心で暮らしているのでわかります。

ぼくはそういう新海監督が描く食事シーンに心をひかれます。

どうしてなのでしょうか。

気になったので自分なりに考えてみました。

ぼくが新海監督の描く食事シーンに心をひかれるのは、それで人間と人間のむすびつきのに関することがあわせて描かれているからだと思います。

人間と人間のむすびつきに関することと言いましたが、その中には孤独な状態も含まれると考えてください。

新海監督は孤食のシーンも多く描いています。

でも、一人でする食事より、仲間と分かち合う食事の方がずっとおいしい。

ぼくは『天気の子』を観て、あらためてそう感じたのでした。

『天気の子』の劇中にはみなさんにもおそらくなじみがあるであろう食品が出てきます。日清食品さんのカップヌードル、日本マクドナルドさんのビックマック、ローソンさんのからあげくんなどがそれです。

どれもジャンクフードと呼ばれるものです。でもそれらの食品を食べる登場人物たちは実に美味しそうにそれらを食べるのです。

新海監督の他の監督たちもアニメーション作品の中で食事のシーンを描いています。その中で美味しそうな食事のシーンと言えば、ほとんどの場合において、料理はハンドメイドです。

『天気の子』の劇中の料理は必ずしもそうではないのが特徴だと思います。料理は工業的な既製品そのものだったり、それに多少の手を加えた程度のものだったりするのですが、それが実に旨そうなのです。

実際にビックマックを食べる「帆高」が言っています。それまでに食べたどの食事よりも、それは美味しかったというのです。彼にそれを差し出した「陽菜」と彼(帆高)との結びつきがそれをそのように感じさせたのだと思います。

そういった人との結びつきが食事を美味しく感じさせるという経験をぼくはこれまでにしている気がします。

みなさんはどうですか?

ところで、新海監督は『天気の子』のテーマとして「少年と少女が、世界を変えること」と「調和を取り戻さない(世界が狂ったままの)物語」という2つのことをあげました。ブルーレイ版『天気の子』に付けられた「特典ディスク」に、そういったことを説明する新海監督の映像が収められています。『天気の子』という物語は、実際にそういう物語なのだろうなと思います。

その物語の中で登場人物たちが食事をしています。ぼくたちの実世界での生活と実によく似ているではありませんか。

そう言えば去年、きよしが『天気の子』をめぐる文章をこのブログに書いていました。それから1年くらいの時間が過ぎようとしています。

その間に色々なことがありましたね。

その中では特にここ数ヶ月の新型コロナウィルス感染症をめぐる出来事が思い出されます。私たちの生活は感染症の拡大以前と比べて、多くのことで変わってしまいました。

その変化は私たちの食事の仕方に現れているのではないでしょうか。感染症拡大の予防のために私たちの生活からは会食の機会が随分と減りましたね。

しかし、それでも私たちは誰かといっしょに食事をすることがあるのです。

『天気の子』の中で、登場人物たちがカップヌードルやからあげくんでささやかで幸せな会食をするシーンがあります。そこではカップヌードルやからあげくんのような食べ物が共食されます。

あ、どもぐいと読まないでくださいね。共食です。

今日、ぼくは学校でその共食のシーンを見て、思いました。今のご時勢、なかなかそういったことをするのは日常で難しいでしょう。食べ物をシェアするのは最もウィルス感染のリスクが高い行為だからです。

でもその共食の場面は実に幸せそうに見えるのです。実際にそんなことができたら、きっと幸せな気分に違いありません。

森本先生もそのことを高校生たちに話していました。

実は今でも、家族や仲間で食事を共にすることがありますよね。

ぼくはここで家族だから食事を共にしろ、仲間なのだから食事につきあえと言っているのではありません。

逆です。

今のような新型ウィルスによる感染症のリスクがあるときに、それでも食事を共にする人たち、それが私たちにとってかけがえのない人たちなのではないでしょうか。

そういった大切な人たちのことを家族・仲間と呼びたいものです。

繰り返しになりますが、許してください。

一緒に食事をするから結びつくのかどうか、それはよくわかりません。

結びつきがある人との食事は幸せなのだとぼくは思います。

新型コロナウィルスで、私たちが暮らす世界はすっかり変わってしまいました。

その世界はなかなか調和を取り戻しません。

奇しくも新海監督が『天気の子』の製作にあたりテーマにしたのと同じようなことが起きています。

ぼくは新海監督のことを予言者だと考えたりしません。新海監督が考えたことは、世界の普通だったのだと思います。

私たちの世界はこれまでに何度も変わってきました。その度に世界の「調和」は崩れ、それは元に戻らなかったのだと言えそうです。

そうした世界の中で生活するのが、私たちにとっての「普通」なのだと思います。

その際にみなさんはどんなことを大切にしますか?

ぼくはぼくにとって大切な人たちのことを大切にしようと思います。そして私たちの社会で生活している人たちは誰もが誰かにとって大切な誰かなのかも知れないと思うようにしています。だからぼくはどの人の生活も大切にしたいと思っています。

それで世界が大丈夫なのかどうか、ぼくにはわかりません。たぶん、それだけでは大丈夫ではないと思います。

でも、まずはそこから始めたい。ぼくはそんなふうに考えています。

今日は『天気の子』を観て、そんなことを感じたのでした。

羅生門2020

こんにちは、きよしです。
昨夜、芥川龍之介の「羅生門」を読み直しました。
ぼくといっしょに暮らしているなめこはぼくの部屋とは別に自室を構えています。なめこはたいてい午前0時になると自室で床に就きます。しかし、昨夜はめずらしくぼくたちが共用しているリビングのソファーベッドでなめこは寝入ってしまったようです。側のダイニングテーブルには高校の教科書がうつ伏せにしてありました。森本先生のものだと思います。手にとって見ると、伏せてあったのは教科書に載っている「羅生門」のページでした。
日本の学校では高校1年生の国語の時間に芥川龍之介の「羅生門」を教材として学ぶそうですね。
ぼくはこれまでに何度も「羅生門」を読みました。
とてもクールなお話だと思います。
「羅生門」で物語られている出来事は、衰微した平安京で生活に困窮した下人が、羅生門の2階で死体の髪をぬく老婆に出会い、その老婆を暴行して老婆の衣服を奪うという事件です。
下人は生活に困窮しています。経済的弱者と言えるでしょう。また、下人は合理的判断が苦手なようです。おそらくは言語的理性が未熟なのだと思います。下人がする判断は短絡的で、非合理的です。
老婆も同様です。
芥川による「羅生門」の語りは実に精緻かつ巧妙でそうした下人と老婆の愚かさを的確に表現しているのですが、同時にその表現は高級で美しいので読み手のいくらかは下人や老婆が愚かであるという物語的事実に気がつかないのだろうとぼくは推測しています。
「羅生門」で描かれているのは愚かな弱者が邪悪なことをするという話です。
人間はときに弱く、ときに愚かで、ときに邪悪なことをします。
それはぼくたちも同じです。ぼくたちはときに弱く、ときに愚かで、ときに邪悪なことをしていまいます。(この前、ぼくはなめこが大切に冷蔵庫にしまっていたプリンを勝手に食べてしまいました。)
また人間はときに弱くかつ愚かでかつ邪悪なのです。これもまた事実だとぼくは思います。
繰り返すのですが「羅生門」は弱くかつ愚かで邪悪な下人と老婆の話です。
人間の学校ではエゴイズムがどうのこうのという話を、この「羅生門」を教材として、しばしばするのだそうです。エゴイズムとは利己主義のことですね。
考えたり調べたりするとわかるはずですが、エゴを大切にすること事態は悪いことではありません。ただその結果、人間は邪悪なことをする場合があります。邪悪なことは悪いことです。当然ですね。しかし、エゴイスティックであるというのと邪悪であるというのは同じことではありません。これも当たり前のことだとぼくは思います。
また、邪悪だというのと愚かだというのは同じことではありません。善良だけど愚かだという場合はあり得ますし、邪悪だけど頭がまわるという場合もあり得ます。
そして、弱者は必ずしも善良ではありません。弱者は愚かであるという場合があり得ます。
こういったことはそれぞれたいていの人間が経験的に理解することなのでしょう。
しかし、その3つが揃ってしまったらどうでしょう。
それでも人間は人間です。人間的尊厳や基本的人権は愚かで邪悪な弱者にも保障されます。それが倫理や法理というものでしょう。人間からそういった尊厳や権利を引き剥がして、生身の人間のようなものについてだけ取り扱うということは人間の実世界ではできません。
芥川はそれをやってみたのだろうとぼくは思いました。
フィクションの世界で、地震や災害や飢饉などで衰微した平安京というダークワールドを設定としてこしらえ、倫理や法理のとどかない社会の闇の部分をその中につくりだしたのだと思います。
そういう知的な作業をたくみにこなし、しかもそれを美しく仕上げるというのは並大抵のことではありません。
美しく仕上げるために要る仕事に1つには、むだをそいでシンプルにするという仕事があるでしょう。
そういった仕事ができるのはクールだとぼくは思います。
ぼくにはとてもできそうにありません。

ピースサイン

「ピースサイン」は米津玄師さんの楽曲で、アニメ『僕のヒーローアカデミア』のオープニングテーマとして用いられました。

吹奏楽版のアレンジ演奏も盛んです。上の動画は東海大学附属大阪仰星高校吹奏楽部さんによる京都駅ビルでのステージの様子ですね。

↑これは丸塚中学校さんによる演奏、これだけ体を動かして、これだけの人数で、この響きを出せるのはすごいことです。

↑本ブログでも何度か紹介したことがある、ピアニストのまらしぃさんによるピアノ独奏版の「ピースサイン」です。まらしぃさんはグランドピアノを弾くと、ものすごく上手いんですよね。本当にピアノが鳴っています。